埴田後山無常堂古墳主体部出土資料一括

更新日:2023年12月01日

茶色くさびた短甲、冑、剣、やじりなどと、鏡、勾玉が並べられた写真

第一主体部出土品集合

ところどころ腐食した円形の銅鏡に様々な装飾が彫られた四獣鏡の写真

四獣鏡

大きさが少し異なるクリーム色のメノウ製勾玉が横に2つ並んだ写真

メノウ製勾玉

埴田後山古墳群は、古墳時代中期から後期にかけて築造された古墳群で、現在までに調査された2基を含めて8基以上の古墳からなる古墳群であったと推定されています。

無常堂古墳は古墳群が所在する丘陵の南東側に所在し、墳丘は大きく削られていましたが、残された墳丘や周溝から直径23.5メートルの円墳であったことが明らかになりました。主体部は木棺を土中に直に埋葬した第一主体部と、横穴式木室(よこあなしきもくしつ)と呼ばれる粘土・木材で墓室を構築した第二主体部が確認されています。

この第一主体部より、剣、鏃(やじり)、メノウ製勾玉、四獣鏡(しじゅうきょう)などとともに短甲(たんこう)と冑(かぶと)が発見されました。甲(よろい)は三角の鉄板と長方形の鉄板を革で綴じた三角板革綴(さんかくいたかわとじ)短甲(欠損部は復元)、冑は縦長の鉄板を鋲(びょう)で留め、透かしの施された庇(ひさし)をもつ竪矧細板鋲留眉庇付冑(たてはぎほそいたびょうどめまびさしつきかぶと)のセットが副葬されていました。甲冑の鉄板の綴じ方については、革綴のものから鋲留へと変化していくことが明らかになっており、八里向山F7号墳に先行する中期中葉(5世紀前葉)のものであると考えられます。同時期に築造された河田山古墳群より優れた副葬品を持ち、ヤマト王権との密接に関係する新興勢力の台頭が推定されます。

報告書/小松市教育委員会1989『後山無常堂古墳・後山明神3号墳発掘調査報告書』

住宅や畑に囲まれ、小高い丘になっている河田山古墳群が右奥にあり、そのすぐ手前に住宅に囲まれた植田後山古墳群がある様子を写した白黒の航空写真

上空から見た埴田後山古墳群(昭和63年[1988年]当時)

田園風景の中に、発掘の跡が残る、土がこんもりと盛られた無常堂古墳がある様子の写真

無常堂古墳全景(合成写真)

深く掘った地層の中に、冑などの出土品の姿が見える出土状況の写真

第一主体部の遺物出土状況

地面に埋まった状態の短甲部品の写真

出土した甲冑(左/短甲部品、右/眉庇付冑)

土に埋まった状態の冑などの写真
復元された紺色の短甲と冑を、青色の古代の衣装の上に身につけた男性の全身写真

復元甲冑

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