市史講座概要

更新日:2024年06月09日

第103・104・105回 市史講座概要

古文書講座

テーマ「安宅町文書を読む」 令和6年3月10日(日曜日)

テーマ「村鑑帳を読む」 令和6年3月20日(水曜日・祝日)

テーマ「地方文書を読む」 令和6年3月30日(土曜日)

講座概要

今回で,市史担当の「古文書講座」も最終となり,これまでの講座を総括する内容を取り上げる。
初回は,地元の「安宅町文書」を読み解き,湊町としての安宅町の様子も文書から窺った。湊町特有の澗改役,船で各地域を往来する時に必要な切手の発行願など安宅町特有の事項を文書から探った。
2回目は,市立博物館所蔵の「村鑑」を読み解いた。「村鑑」は村の概要を記した帳簿で,今の村勢要覧のような内容である。今回は22ヶ村の記載のある内,遊泉寺村を取り上げ,遊泉寺村の様相を探った。
3回目は,市外の文書に目を向け,加賀藩の領域である能登地区の村の文書を取り上げた。村の生活の一端に触れる,新開,養子縁組,嫁娶り,改名,長寿祝などの文書を読み解き,当時の村の風習も学んだ。

第100・101・102回 市史講座概要

古文書講座

テーマ「古文書を読んでみよう」 令和5年3月5日(日曜日)

テーマ「村方文書を読む」 令和5年3月12日(日曜日)

テーマ「町方文書を読む」 令和5年3月19日(日曜日)

講師:袖吉 正樹氏(新修小松市史専門委員)

講座概要

初回はまず古文書に慣れるため,基本的なくずしの武家文書を取り上げ,知行宛行状などから武家社会の実情も探った。
2回目は村方文書から,村で一番大切に保管されている村御印や廻状,人別送り状などを読み解き,当時の村の様子も垣間見た。
3回目はかなり文字もくずれ,くせ字の多い町方文書の中から,遺言状関係の一連の文書を読み下し,町人の相続方法についても学んだ。

第99回 市史講座概要

テーマ『小松で改作法断行!』~利常の隠居政治~

講師:木越 隆三氏(石川県教育委員会近世史料編さん室長/新修小松市史専門委員)
日時:令和5年2月4日(土曜日)午後1時30分~3時10分

講座概要

はじめに
三藩分治で,光高80万石,隠居領22万石,二男利次11万石,三男利治7万石。この隠居領を持って利常は小松城に入城。何故,小松を居城としたのか。少年時代に人質としていたことが大きく影響したのだろう。

1 村御印の「史料学」
「改作」は後の当て字。利常は「御開作」としている。「開作」とは田をつくる=農耕のこと。利常は農業政策に邁進するため,困窮する村を救済し,「御開作地」とし,この地に村御印を発給して,新税制(増税)を実施した
この村御印での増税に,過酷な政策とし,裕福な農民への発展の目を摘む体制であるとか,環境負荷により農業の持続可能性が失われたとするマイナス評価が強いが,高沢忠順は,増額分で飢饉時に救済するための財源に充てられたとし肯定的評価もある。但し,飢饉救済の財源にしたのは利常までで,綱紀の時代には一般財源化し,多数の下級武士の給料に充てられた。
村御印は今でも多くの町に保管される(表A参照)。何故,村御印は大切にされたか。御印である殿様の印のある文書は,村には村御印以外には無かったから。また,村御印は税金請求書。これ以上の税を支払わなくてもよい根拠になった。税率は,村高が上がっても変わらなかったため,それを示す証拠の証文としてずっと大切にされた。
利常の時,明暦2年に10郡3,400ヶ村の村御印を全村一斉に出す。その後,綱紀の時,寛文10年(1670年)に新御印を出すため,明暦の村御印を回収,破棄する。寛文より税率の低い明暦の御印を差し出さないように破棄された。
村御印から小松城下のことがわかる。寛文の村御印は小松の町にも出ている(表B参照)。利常逝去後,家臣の武士は金沢に帰ると,武家屋敷跡は村に返され,耕地となり,石高が増え,「屋敷跡上高」として寛文村御印に記載された(表B参照)。町方10村以外にも石高増えたところがあり(表B下),今江村他8ヶ村で272石増加している。つまり,この村々にも武家地があったことがわかり,村御印から小松城下の武家地の広さがわかる
何故,城下から遠いところに武家屋敷があったのか。関が原の戦いで,利長は浅井畷で丹羽に敗れた。小松城を守るため,戦略的に,北は上牧,下牧,南は三谷,大領,今江に武士を配置した

2 利常隠居と前田領四分割
利家が亡くなり,長男利長が二代目を継ぎ,その後継ぎは,利長に子がいなかったため二男利政がなったが,関が原の戦いの時,利長に背いて利政が出陣をしなかったことから,三代目の後継ぎには,四男利常が選ばれた。慶長5年(1600年)の丹羽家と前田家の和睦で,その血判状に,利常を人質に出す旨が記されているが,前田家の後継ぎとして認められていたので利常が人質となった。
利常は小松に人質としている時に,家康の孫珠(3歳)が輿入れする。珠姫は将軍秀忠の二女であり,利常は将軍が義父となった。利常と珠姫との長男光高は四代目となるが,光高の正室大姫は三代将軍家光の養女で,光高もまた将軍を義父に持つことになる。また,利常の娘富姫(フウヒメ)は公家の八条宮智忠親王(八条宮は桂離宮を創設した公家)に嫁ぎ,前田家は公家ともつながり,京都の文人を金沢に呼ぶことができた。

3 改作法断行、藩政確立
新川郡を隠居領としたのは新田開発を進めるため。能美郡今江村の先進的な農業技術を持った若夫婦20組を舟見野(黒部川河口)に入植させ,開発を奨励した。

4 能美門徒に注目し「御開作」を遂行
利常は,人質になった幼少期の小松で,真宗門徒が南無阿弥陀仏と唱えながら,寺に献金する姿を見ていた。『微妙公御発語』に「この方の分国,大形一向宗。本願寺の門跡は国守に背かない。」,「一向宗は重宝,重宝」と利常が語ったとある。これをヒントに,一向宗徒の献金のように,増税は無理矢理でなく,百姓が納得できる増税がないかと考えたのが「開作」であった

第96・97・98回 市史講座概要

古文書講座

テーマ『武家文書を読む』 令和4年2月19日(土曜日)

テーマ『安宅町文書を読む』 令和4年3月5日(土曜日)

テーマ『十村石黒家文書を読む』 令和4年3月13日(日曜日)

講師:袖吉 正樹氏(新修小松市史専門委員)

講座概要

初回は基礎編で,武家文書に触れながら古文書の特徴を学びました。合わせて,古文書特有の変体仮名や異体字などを確認しながら読み解きをしました。資料は,平士クラスの家臣ながら2050石の知行高を持つ,金沢の茨木家文書を取り上げました。
2回目は地元資料である安宅町文書の読み解きをしました。安宅町は,海運業の発展とともに,正徳3年(1713年)に村から町立てし,小松町奉行所の配下となりました。安宅町特有の様相を古文書から探りました。
3回目も地元資料である石黒家文書を取り上げました。石黒家は,前田家の治世下,30~40か村を組として束ねた「十村」役にあった家で,田畑を開拓したり,金山(文書では「かね山」と記載),銅山,鉛山を発見するやその経営に当たり,幕府からは朝鮮人参栽培の御用を承るなど多彩な方面に活躍し,金平村一帯を治めていました。その活躍の一端を古文書から読み解きました。

今回のテキストとその資料の書き下し文をPDFにして掲載しました。講座を受講できなかった方も読み解きに挑戦してみましょう!

第95回 市史講座概要

テーマ『SDGsを目指した町づくり』~小松の近現代史をふり返る~

講師:平野 優氏(新修小松市史専門委員)
日時:令和3年11月28日(日曜日)午後2時~3時30分

講座概要

近現代史は,明治維新という幕藩体制から中央集権国家への大転換により幕開けとなる。開国によって,欧米と対抗するため,国家は富国強兵策を打ち出し,そのためには,健康な国民・兵士が必要として,健民健兵政策を進めていく。保健所の開設,伝染病・窮民対策がそれである。
こうして国家は,日清・日露戦争を皮切りに,対外戦争に挑んでいくことになるが,その中で,地域自体の力を高める必要性から,町村合併,市制施行が進められ,地域分権社会が確立していった。しかし,地域力が増せば国家との対立は必然的に起こり,この相克をどのように解決するかが近現代史の歩みでもあった。
戦争が終結すると,敗戦後の窮乏から国家全体が混乱し,復興のための対策が講じられた。当市でも,戦前の主産業だった繊維・藺草・銅の生産が落ち込み,人口も,昭和20年代後半には6万2千人まで減少した。その対策として,昭和の大合併が実施され,大小松市の建設を目指した。まず国民が,「健康で文化的な生活を営む権利」(憲法25条)を保障するために,国民健康保険の実施,医療・福祉機関の設置,また教育面においても新制小・中学校,高等学校の設立や高等教育機関,社会教育機関が設けられた。また,産業都市に向けて,インフラの整備が進められ,国道8号線,小松バイパス,北陸自動車道などの交通網が整備され,小松明峰駅が新設され,人口増加に伴う飲料水・生活用水の必要性からダム建設が進められ,大日川ダム赤瀬ダムが完成,また,食糧増産政策として,加賀三湖干拓事業が実施された。
当市の開発事業として注目されるのは,小松飛行場尾小屋鉱山であろう。小松飛行場は,航空自衛隊と民間との併用運用が成立し,昭和36年(1961年)にターミナルビルの完成とともに営業が開始された。しかし,一方で,騒音がもたらす被害により住民運動に発展した。また,尾小屋鉱山では,排出される鉱毒による被害が増大し,さらには,カドミウム汚染問題も起こって農民たちを苦しめた。こうした環境問題は,騒音については防音対策や集団移転に取り組み,カドミウム汚染は産米補償するとともに,土壌改良対策を12年間掛けて実施し,遂に解消した。
開発と環境もまた相克しながらも,当市は幾多の試練を乗り越え,今日では,小松飛行場は,「国際空港」として,また,「空の守りの要」として飛躍し,環境回復によって,当市は,「環境王国」の認定を受けるまでになった。
現在,世界の各国が,「2030年までに,達成すべき,私たちができる17の目標」を掲げたSDGsの実現を目指している。当市でもSDGsを目指した町づくりを実践中で,北陸新幹線開業が間近に迫り,駅周辺施設の整備が進んでいる。市民一人ひとりが自分たちのできる目標を見付けて,今日から始めてみよう!!

第92・93・94回 市史講座概要

古文書講座

テーマ『古文書を読んでみよう』令和3年2月27日(土曜日)

テーマ『武家文書を読む』令和3年3月7日(日曜日)

テーマ『地方(じかた)文書を読む』令和3年3月13日(土曜日)

講師:袖吉 正樹氏(新修小松市史専門委員)

講座概要

初回は基礎編で,文書に触れながら古文書の特徴を学んだ。合わせて,古文書特有の変体仮名や異体字,合字などを確認しながら読み解きをした。
2回目は,割場(警備・飛脚・掃除などを足軽に割り当てる役所)付留書役(各種書類を作成・整理・保存する書記にあたる役)を務めた新保家の文書を取り上げ,基本的なくずしの武家文書を読み下した。
3回目は,能州郡奉行を務めた神保家の文書を読み解くとともに,当時の村の様子を学んだ。

今回のテキストとその資料の書き下し文をPDFにして掲載しました。講座を受講できなかった方も読み解きに挑戦してみましょう!

第91回 市史講座概要

テーマ 『「一番大名」前田利常の軌跡』

講師:見瀬 和雄氏(金沢学院大学名誉教授・新修小松市史編集委員・専門委員)
日時:令和2年11月15日(日曜日) 午前10時~11時/午後2時~3時(2回開催)

講座概要

今年は,前田利常公が小松城に入城して380年の節目に当たる。これにちなんで,利常の生涯に触れ,どのような歩みの中で,領地高が最大の「一番大名」になったのか,その苦難の道をたどった。
出自に始まり,丹羽長重の人質,三代当主の成立・自立,大阪夏の陣での活躍,元和検地,大阪城再築普請,寛永の危機,加賀藩寛永改革,隠居と四分領,光高政権の成立,犬千代(綱紀)の誕生,光高の死,利常の改作法,江戸城普請,利常の死と利常の生涯を振り返り,その時々に起こった事件,利常が行った政策を紹介し,「一番大名」と呼ぶにふさわしい利常の軌跡をたどった。
内容の詳細は,資料を参照していただきたい。

講演後,博物館主催で,芦城公園から小松城石垣まで,利常にまつわる史跡を巡った。利常銅像,小松城に使われたと思われる石,城跡発掘場所,小松城石垣,城西側の小松城遺構など解説のもと周った。ちょうど小松城石垣の整備が終わり,階段が整えられ,天守の上に登ることができる。市内はもとより好天であれば白山も一望できる。

第90回 市史講座概要

テーマ おくのほそ道330年『芭蕉の残したもの』

講師:綿抜 豊昭氏(筑波大学教授・新修小松市史専門委員)
日時:令和元年10月6日(日曜日) 午後2時~3時10分

講座概要

今年が,「おくのほそ道330年」ということで,「芭蕉」,「連歌」,そして来年の大河ドラマとも関連し,「明智光秀」と,この3つをキーワードに,芭蕉が小松に残した足跡を紹介する。

「連歌」といえば,当時,トップクラスにいたのが能順であった。能順は,小松天満宮創建時に,初代別当として招かれ,連歌の第一人者でもあったことから,小松の地はたちまち連歌が盛んな地となった。
この能順と芭蕉との対面が話題に挙げられるが,その場面は,『とはしぐさ』で取り上げられている。「芭蕉が能順を尋ねて,能順の句を奉納した際に,「てにをは」が違っていたため,能順が不機嫌になり,決裂した」という内容であった。時代背景を見てみると,当時は身分社会で,いくら俳諧で優れていたとはいえ,出生の低い芭蕉と,加賀藩御用達である能順とでは,身分が全く違っていた。能順は,文化スタッフの重要な位置にいた人物であり,この能順に芭蕉が面会するためには,間を取り持つ仲介者が必要であった。ひとり商人の堤歓生を立てたが成り立たず,もう一人,禄高のある加賀藩士であった万子を立て,ようやく対面に漕ぎ着けた。この二人の関係を押さえれば,能順の怒りが文芸的なものばかりでなく,身分社会の中での礼儀においても怒りにふれたことが推察される。
このように,当時は,連歌を嗜む人にとって,連歌は俳諧よりも格上だというプライドを持っていた。一方で,俳諧をやっている人には,芭蕉は神様であり,能順が京都北野天満宮出身の身分の高い人であっても,芭蕉がこの世界ではスーパースターであり,第一人者であった。
かといって,芭蕉が連歌を全く知らなかった訳ではない。連歌がわからなければ,俳諧のオリジナリティが出せないのであり,連歌とは違う路線を出すためには,「何が基になり,どこを変えるか」ということがわからなければ出来ないことであり,芭蕉は連歌をきちんと勉強しており,特に連歌界の第一人者と言われた宗祇が好きだった。

今回,博物館では,特別展として,「芭蕉とこまつ」を開催しているが,この中に,芭蕉の真筆と伝えられる「明智が妻」の句が展示されている。この句を芭蕉が詠んだ光秀の時代をふり返ると,当時,公家が和歌なら,武士は連歌を嗜むという社会構図があり,連歌会は武士のもてなしの一つであった。光秀が越前にいた頃,貧乏だったために,仲間が来ても連歌会を開くだけの費用がなく,そこで妻が自分の髪を切って売り,その費用で連歌会を開いて,夫光秀は面目を保ったという逸話がある。芭蕉が伊勢参詣の途中,貧しい家の夫婦に暖かいもてなしを受けた際,その逸話が思い出され,「明智が妻」の句を詠んだ。
光秀は,足利義昭に仕え,上洛した後,京都では連歌に長けた教養人として知られた。折しも,信長が都に進出する時,信長は,世間から,教養のない尾張の田舎者と見られてしまい,財力は茶道具などを買い占めて物で胡麻化したが,京都の文化圏の人々との交流となると,信長の教養では及ばず,交渉人が必要であった。そこで光秀の「武士の連歌の嗜み」が求められ,信長は義昭から光秀を引き抜いたのである。こうして光秀は,豊臣秀吉と共に召し抱えられ,2トップの座に就いた。このように,光秀と信長の関係は,光秀と連歌の関係を押さえないと真意は探れない。

芭蕉の真筆か否かは,字がきちんと書かれているかが,一つの価値基準で,後は感受性の問題。印があっても,後から真筆性を高めるために押したものもあるため,判断の基準にならない。本物か否かということより,似ているかどうかを見てほしい。

第89回 市史講座概要

テーマ『小松市の農家建築』~小松の農家からみた石川県の農家建築の特徴~

講師:中森 勉氏(金沢工業大学建築学部教授・新修小松市史専門委員)
日時:令和元年7月14日(日曜日)午前10時~11時30分

講座概要

今回の講座では,『新修 小松市史 建築編』で取り上げた農家を中心に,山間部と平野部との違いや,時代によっても違う農家建築の様式について紹介した。
山間部では,林業を営む家では,かつて,「ウマヤ」が設けられ,運搬に馬が使われなくなると,その空間は,「ヒロマ」・「オエ」に転用された。また,明治期に建った家は,もとは茅葺きであったが,板葺き,そして,現在では,瓦葺きと変遷している。この変遷は,県全域に共通の発展形態である。
一方,平野部の農家はバリエーションが多く,基本は,ゲンカンからニワ,ドマ,オエと続き,その後ろに田の字型の4室(クチノマ・ナンド・ブツマ・カギノマ)から成る,いわゆる「加賀1型」のタイプが大半である。この加賀1型に家族団欒の空間としてチャノマが出現すると,ダイドコロとともに主屋の横に張り出したり,(加賀2型)あるいは,チャノマ兼ダイドコロとして,主屋の一部分を構成したり,(加賀4型),全く主屋から別棟になったり(加賀3型),加賀1型を基本に,アレンジが出て来る。
間取りには,能登とは違った地域性があり,時代によっても変わって来ている。

第86回・87回・88回 市史講座概要

古文書講座

テーマ『古文書を読んでみよう』平成31年2月16日(土曜日)

テーマ『町方文書を読む』平成31年2月24日(日曜日)

テーマ『地方文書を読む』平成31年3月3日(日曜日)

講師:袖吉 正樹氏(金沢市立玉川図書館担当館長補佐・新修小松市史専門委員)

講座概要

毎年恒例の古文書講座。

初回は基礎編で,基本的なくずし方で書かれる武家・寺院文書を取り上げた。文書に触れながら古文書の特徴を学びつつ,古文書特有の変体仮名や異体字,合字などを確認しながら読み解きをした。2・3回目以降は,町方・地方文書を取り上げ,町方は遺言,相続に関する文書,地方は十村肝煎が郡奉行に出した願出書等を読み下した。

今回,初回のテキストを紹介する。最初の頁と次頁とはセットの文書で,知行宛行状と知行所付である。主君から家臣に与える土地知行の保証書で,自分の治める土地の権利を保証する重要な書状であった。今回紹介する書状は,加賀八家の一つ長家が家臣河野団丞に出した書状で,亡くなった父の家督を継ぎ,給料150石を息子に渡す旨が書かれている。以下,書き下し文を記す。(「/」は1行の区切)

《知行宛行状》

亡父武左衛門知行之内百五拾石 / 目録在別紙事令扶持畢全可収納 / 者也仍如件 / 大隅

元禄十二年十二月廿二日尚連花押 / 河野団丞殿

ぼうふぶざえもん ちぎょうのうち ひゃくごじゅっこく

もくろくあり べっしのこと ふちせしめおわんぬ まったくしゅうのうすべく

ものなり よってくだんのごとし / おおすみ

げんろくじゅうにねん じゅうにがつにじゅうににち なおつら

かわのだんじょうどの

《知行所付》

目録 / 一草高百石 / 免四ツ壱歩 / 越中知物成 / 蔵本ニ可渡

一草高拾石 / 免六ツ三歩 / 石川郡 / 荒屋村

一草高拾石三斗 / 免五ツ四歩 / 加賀郡 / 横濱村

一草高拾石貮斗貮升九合 / 免六ツ / 同郡 / 才田村

草高合百三拾石五斗貮升九合 / 定納五拾九合

折紙高百五拾石内 / 百石越中免四ツ壱歩 / 五拾石加州免三ツ六歩

右公義如 御定夫銀口米 / 可収納者也

元禄十二年十二月廿二日尚連 / 河野団丞殿

もくろく / ひとつ くさだかひゃっこく / めんよっついちぶ

えっちゅうちものなり / くらもとにわたすべく

ひとつ くさだかじゅっこく / めんむっつさんぶ / いしかわぐん / あらやむら

ひとつ くさだかじゅっこくさんと / めんいつつよんぶ / かがぐん / よこはまむら

ひとつ くさだかじゅっこくにとにしょうきゅうごう / めんむっつ / どうぐん / さいだむら

くさだかごうけいひゃくさんじゅっこく ごとにしょうきゅうごう

じょうのう ごじゅうきゅうこく / おりがみだか ひゃくごじゅっこくのうち

ひゃっこく えっちゅう めんよっついちぶ / ごじゅっこく かしゅうめん みっつろくぶ

みぎこうぎ おさだめのごとく おんじょうぶぎんくちまい / しゅうのうべく ものなり

げんろくじゅうにねんじゅうにがつにじゅうににちなおつら / こうのだんじょうどの

4頁以降はご自分で読み解きをしてみましょう!

第85回 市史講座概要

テーマ『温泉の民俗』~粟津温泉を中心に~

講師:小林 忠雄氏(加能民俗の会会長・新修小松市史専門委員)
日時:平成30年10月8日(月曜日・祝日)午後1時30分~3時

講座概要

温泉の歴史は古く,その始まりはシラサギやシカ,キツネなど動物にまつわる開湯伝説で知られるが,高僧や山伏などに発見されて始まった温泉も多い。そもそも,田圃仕事を終え,温泉に浸り,体を休めたことに始まるが,その場所は鎌倉期には湯治場として確立され,その効能については貝原益軒の『養生訓』の中で取り上げられている。温泉を明白に定義したのは,江戸後期の医師宇田川榕庵(ヨウアン)が最初,『舎密開宗(シャミィカイソウ)』の中で温泉の性質にも触れ,4種類あると明記している。

養老2年(718年)に,白山を開山した泰澄大師は,白山権現の霊告により,源泉を発見した。その時,道案内をしたのが笹切源五郎で,その次男雅亮(ガリョウ)法師が源泉を守り子孫に伝えた。ここに開いた湯治場が法師で,当主は代々「善五郎」という名を受け継ぎ,現在46代目である。このあたりの温泉の特徴は,総湯(湯宿の外にある共同浴場)が必ず各温泉にあり,その総湯を湯宿が取り巻き,客は湯宿から総湯へ通えるようになっている。

粟津温泉は,明治40年(1907年)に国鉄粟津温泉駅開業を機に急速に発展し,その後,さらなる温泉客誘致のために,粟津大王寺の薬師如来を祀る行事だった「湯のまつり」を開湯を祝う「おっしょべ祭り」に変更した。祭りでは,江戸後期から伝わる,お末と竹松の恋物語を歌った「おっしょべ節」による輪踊りの他,額見町の虫送り太鼓を改良した「加賀太鼓」を温泉芸能として新たに加え,「おっしょべ祭り」は輪踊りと太鼓の祭りへと発展を遂げた。

明治期に五右衛門風呂が出現すると,土地持ちの大きな農家では風呂を建て,10軒一組で湯番を決め,持ち回りでもらい湯をした。共同浴場の始まりである。ただ当時は父権制社会で,風呂に入る順番があり,男→子供→お婆さん→お嫁さんと決まっていた。また湯番の仕事は重労働だが,1番のメリットが,大人数が入ると,入浴後の湯垢が2~3センチメートル溜り,この垢を田や畑の肥料として使うことができた。

第84回 市史講座概要

テーマ『芭蕉二百回忌追善俳句集の世界』

講師:綿抜 豊昭氏(筑波大学教授・新修小松市史専門委員)
日時:平成30年9月15日(土曜日) 午前10時30分~11時30分

講座概要

 松尾芭蕉といえば,江戸期の俳諧師として,その時代の人達にとっては,神様的存在であった。その芭蕉と相対したのが正岡子規でした。子規の登場により,明治期の俳壇は,伝統を受け継ぐ「旧派」と,子規らによる「新派」とに分かれたのである。すなわち子規の俳句は感性でつくるのに対し,芭蕉の俳句は知識が土台になっていた。「旧派」の人達の俳句は日本の原風景を詠み,日頃感じていたことを書き留めていたので,当時の人達がどんなふうに日常的なものに感じ,驚いていたかが見えてくる。
 明治26年に「旧派」の最大イベント「芭蕉二百回忌」が行われた。そのことを子規は,『芭蕉翁の一驚』という小説で見事に皮肉っている。
 その後,世は,殆ど「新派」中心となっていったが,小松はこの影響を受けず「旧派」が依然として勢力を持っていた。その中で,小松では『加能俳人誌』が大正2年に出され中には当時活動していた俳人の名簿が紹介され,往時が忍ばれる。その名簿に載っていた波佐尾可遊(当時材木町)氏が詠んだ句を紹介する。
「鶯や 梅散てから 折に来る」《私の庭には梅が咲いているがなかなか鶯が来ない》
 春になれば鶯が来る,ありのままの風景を句に詠み込むのが「旧派」の人達。鶯はこう詠むという知識(春=鶯)が大事だった。一方,子規以降のつくり方は「鶯が鳴いて感動した」と感受性に訴え,芸術的なのが「新派」である。「旧派」は切れ字や季語に決まり事が多く,特に季節に合う季語をはめ込むことを重要視した。
 「二百回忌」に当たる明治26年頃は,世代交替が進み,そんな中,江戸期生まれの往年の「旧派」の俳人達が追善俳句集を完成するというイベントを成し遂げた。しかしながらこの時,小松の「旧派」の俳人達の活動は下火で,小松だけでの句集はつくれなかった。そんな中,奮起する宗匠が明治期末頃に現われ,月次の句会が催され,二百五十回忌には多太神社で追善供養を実施するに至った。その後も細々と活動は大戦前まで続いたようである。

第83回 市史講座概要

テーマ『小松の町家建築』

講師:山崎 幹泰氏(金沢工業大学建築学部教授・新修小松市史専門委員)
日時:平成30年7月15日(日曜日) 午前10時~11時30分

講座概要

 昨年3月末に発刊した『新修 小松市史 資料編15 建築』と現在実施されている大文字町の重伝建調査の成果を講演いただいた。
 町家建築が建ち並ぶ中心市街地では,昭和5・7年に大火に遭い,その教訓から道路幅が広げられた。そのため,これまでミセ,オエ,ブツマ,ザシキの一列四段型の間取りだったが,部屋数が取れないことから,仏壇がザシキに取り込まれて,ミセ,オエ.ザシキの一列三段型へと構成が変わった。
 また,大火で全焼したため,一斉に建て始めたので,様式が似て,家並みの高さも揃って理路整然と建ち並んでいる。これまで2階は,物置の用途が多かったが,部屋としての機能をもたせたことから,2階が大火前より高くなっているのも特徴である。
 道路の角目を隅切りにしたのも大火後の特徴で,車が通りやすくなり,家屋も隅切りの面に合わせて玄関にしたり,工夫がなされている。
 龍助町は大型の町家が目立ち,大文字町は小ぶりでも離れを持つ家が多く,貸家も営んでいる。
 蔵は大火でも焼けずに残ったが,新築した蔵は,防災のためにも家屋に並べて建てており土蔵の蔵が多い。
 鋳物師の町で知られる高岡市金屋町の町家は,小松の町家と構造上似ており,その違いを比較してみた。
 小松の町家は,同時期に建てられたので,高い位置で軒が揃うが,金屋町は軒高に変化がある。また,小松はザシキとブツマが一体化しているのに対し,金屋町はブツマがザシキ化している。吹抜けに面した2階も小松は廊下に障子窓を設けるが,金屋町は渡り廊下のみを設けるといった違いがある。柱などはどちらも漆を塗っているが,金屋町のは年数が経っているのか,小松は赤さが強いのに対し,黒っぽい感じである。
 この他,調査に入った町家で特徴ある様式の紹介もあり,詳細は,市史『建築編』を熟読されたい。

第80回・81回・82回 市史講座概要

古文書講座

テーマ『古文書を読んでみよう』平成30年2月18日(日曜日)

テーマ『町方文書を読む』平成30年2月24日(土曜日)

テーマ『地方文書を読む』平成30年3月4日(日曜日)

講師:袖吉 正樹氏(金沢市立玉川図書館担当館長補佐・新修小松市史専門委員)

講座概要

 毎年恒例の古文書講座。中級編。
 初回は,はじめて武家文書と寺院文書を取り上げた。いずれの文書もくずしが少なく,正当なくずし方で,初心者でも読みやすい文書である。
 古文書の決まり(書札礼という)に尊敬にの表記があり,身分の高い人名や言葉が出てくると,尊敬の念を込めて,文字の間を1字空ける闕字(ケツジ),文章が続いていても改行する平出(ヘイシュツ),本文から1字飛び出す抬頭(タイトウ)が使われる。
 文書は,この書札礼に従って書き,書記官(祐筆家)が書状を書くのが慣例である。
 2回目の町方文書は,富山県高岡付近にある放生津(ホウジョウヅ)町で町年寄をしていた柴屋家の文書を取り上げた。放生津は,行政上「村」とされ,村御印も出ているが,町に準ずるとして在郷町と言われる。故に郡奉行の支配となり十村が最高責任者となる。役職に任命された文書を始め,町の様子がわかる古文書を紐解いた。
 最終回は,羽咋郡(現在は津幡町)瓜生村の地方文書を取り上げた。宝達山が隣接し,炭焼き,畑作で生計を立てていた。村には瓜生川が流れ,急な流れのために,よく洪水を起こし,そのための治水関係の文書が残っている。洪水関係の文書には,藩提出前の訂正を残したままの文書が残っており,訂正のまま残した文書は珍しく,今回取り上げた。

第79回 市史講座概要

テーマ『木場潟の成り立ち』

講師:小岩 直人氏(弘前大学教授・新修小松市史専門委員)
日時:平成29年11月12日(日曜日) 午前10時~11時30分

講座概要

 去年から開始した,加賀三湖のプロジェクトから1年,どんなことがわかってきたのか研究の成果を講演していただきました。
 加賀三湖は,元々は海だった所が,何らかの原因で海から切り離された水域の「海跡湖(かいせきこ)」に分類されます。約2万年前の氷期には海成段丘面を深く刻んだ谷が存在していました。その後,地球規模で生じた温暖化により,海面が急上昇し,小松市周辺においても,月津台地や柴山台地の下まで海が侵入していたことが,木場潟のボーリングの分析からわかりました。この時には,小松市のほぼ全域(台地や山地を除いて)が海域となったようです。
 また,木場潟周辺のボーリングの深さ14メートルのところに7300年前に九州の鬼界カルデラから噴出したアカホヤ火山灰と推定される火山灰が10センチメートルの厚さでみられます。アカホヤ火山灰は,ほぼ現在と同じ海面の高さの時期に噴火したことから,火山灰の堆積している深さは,その当時の海の深さを示すとはいえ,当時は現在の加賀三湖より大きくて,深い水域があったことが推定されます。
 その後,小松市街地,及び小松空港が立地している砂の高まりである2列の砂州が形成され,かつて海だったところが閉じられて,およそ5000~7000年前に加賀三湖の原形が出来上がりました。木場潟はその形成以降,海域,汽水,淡水へと変化するなど,激しい環境変化を経験してきたようです。
今後は,今江潟においてもボーリングを実施し,今江潟と木場潟の同時代の環境を比べながら,昔の環境を明らかにしていく予定です。

第78回 市史講座概要

テーマ『那谷寺 ~知られざる中世の歴史~』

講師:室山 孝氏(石川県立図書館加能史料調査委員・新修小松市史専門委員)
日時:平成29年9月10日(日曜日) 午前10時~11時30分

講座概要

 那谷寺は,今年,白山と共に,開山1300年を迎える。今ある現状の姿は,近世に入り前田利常によって再建されたもので,それ以前の中世の頃の姿はあまり知られていない。
 今回は,この頃の文献史料を紐解き,中世の那谷寺の姿を探ってみた。
 白山周辺の地域では奈良時代の頃から小さな規模の寺が次々と活動し始め,一方で白山信仰が広く行き渡ったことから白山宮グループが組織化された。すなわち仏教界の権威者であった比叡山延暦寺と結びつき,殆どの寺院が天台宗に帰依した。那谷寺もまた延暦寺との結びつきを求められ天台宗に属し,こうして白山系の寺社は白山三ケ寺,白山五院,中宮八院に組織化され,この地域での勢力を確固たるものにした。
 ところが,南北朝期になると,那谷寺は幕府(北朝)方の富樫高家と結び,南朝方の中宮八院との争いに勝利し那谷寺が中宮系の基盤を継承,南加賀の白山系寺院の代表的存在となった。これを機に真言密教へと改宗,醍醐寺金剛王院との関係を深めていった。
 15世紀に入ると,醍醐寺からの門跡の下向があり,灌頂(法事)を行うなど,布教活動が活発となり,子院もでき,那谷寺は代表格としてその組織を強化した。この頃に那谷寺産瑪瑙の提供の話が伝わる。大内義隆が那谷寺産の瑪瑙20個を所望したが,5個のみ贈ったことが文献に載っている。
 16世紀には,一向一揆の鎮圧が始まり,朝倉軍が加賀,越前に侵攻してくる。那谷寺は朝倉景隆の時に焼き討ちされ,末期には,織田軍の加賀侵攻に遭い,那谷寺は衰退の一途をたどることになる。

この記事に関するお問い合わせ先

図書館

〒923-0903
石川県小松市丸の内公園町19番地
電話番号: 0761-24-5311 ファクス:0761-22-9763
​​​​​​​お問い合わせはこちらから