歴史を彩る人々
小松に語り継がれる先人達の物語をご紹介します。
弁慶物語
小松市の西北部、梯川の河口に位置し、日本海に面した港町として安宅町があります。安宅の名が全国に知られているのは、謡曲の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」が、その舞台をこの地に設定したからです。
史実との違いなど、現実的なことを追求するよりも、なぜ小松が、安宅が、物語の舞台となったのかとイメージを広げると、北陸が大陸に向かっての表玄関であったことや、日本海の海運を通じて人々がにぎやかに行き交ったことなどに思い至ります。
毎年市内の中学生によって「勧進帳」が上演され、また、5月のお旅まつりでは「子供歌舞伎」が行われる、勧進帳のふるさと・小松。市民の暮らしの中に根付く歌舞伎文化の大きな象徴が弁慶なのです。

安宅海岸に立つ、弁慶像。
芭蕉物語
小松の町衆文化を語るとき、芭蕉の存在もまた欠かせません。有名な「奥の細道」の道中で、芭蕉は小松を訪れたあと山中温泉に滞在していたのですが、その後ふたたび小松を訪れています。この旅で同じ地を2度も訪れたのは小松のほかになく、芭蕉と小松の人々との特別な縁(えにし)に思いを馳せずにはいられません。
小松では、前田利常の招きで小松天満宮の別当をしていた連歌の巨匠能順と出会います。さらに、山王宮(現在の本折日吉神社)の神主・藤村鼓蠣(こせん)や町役の越前屋歓生など、小松の俳人たちとの出会いもありました。そんな中、3回の句会が催され、芭蕉は「しほらしき名や小松吹く萩すすき」「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」「石山の石より白し秋の風」など、小松ゆかりの句を残しています。
当時の小松はすでに小松倫子(りんず)など絹織物の産地として、地方都市としては相当の経済力を持ち人口も1万人を超えていました。句にあるような豊かな自然の風はもちろん、人の風、文化の風が吹いていたまち・小松。その風をしっかり感じたのが芭蕉です。

「侘(わ)び」「寂(さび)」の風情がただよう那谷寺。
仏御前物語
小松の歴史を彩るものに、信仰心の深さも忘れてはなりません。浄土真宗(一向宗)の信者や寺院が多く、古くからこの地方は「真宗王国」と呼ばれてきました。そんな信仰心が根付く地であることを象徴するように、「仏御前」の話が今に息づいています。
仏御前は、平清盛に寵愛された白拍子(平安末期に流行した歌舞のこと、またそれを舞う芸人のこと)でした。1160年(永暦元年)の正月15日、小松に生まれ、14歳のとき京都の叔父のもとで歌舞音曲を学び、その白拍子の見事さゆえに清盛に愛されます。しかし、仏御前と入れ替わるように清盛の元を去った白拍子・祇王(ぎおう)姉妹のことを思うにつけ、ほどなく17歳にして世の無常を感じて出家し、仏に仕えながら1180年(治承4年)21歳の若さでこの世を去ります。
彼女にまつわる言い伝えは実に異説があるのですが、それも若くして世の中を見つめ己を貫いた、その強い意志へのあこがれが多くの人の心を捉えたからなのでしょう。権威におもねることのなかった女性がいたことを誇りとするまち・小松。その精神的な支えともいえるのが、仏御前です。

墓石をたずねる人の絶えない、仏御前屋敷跡。
利常物語
小松が誇る貴重な文化遺産や伝統産業の礎を築いた、いわば小松発展の恩人ともいえるのが、前田利常です。
利常は加賀藩歴代藩主の中でも名君と呼ばれ、特に晩年、小松城での19年間にわたる業績には、とても大きなものがあります。自分の隠居城として小松城を大拡張、大増築して入城したのが利常48歳、寛永6年(1639年)のこと。信仰心の厚かった利常は、一向一揆で荒れ果てた那谷寺を再び盛んにしたり、葭島(よしじま)神社、小松天満宮を建てたりしました。また利常は、美術工芸や茶道・能などにも深く通じていたことから、城の増築、お寺や神社の造営に美術工芸を中心に当時の名人・名工と称せられる人たちを数多く小松に招いています。産業分野においても、京都に人を送り織物を研究させ、小松絹の発展へと導いたり、九谷焼・瓦・茶・たたみ表なども保護奨励したり、その貢献度は計り知れません。
そんな文化と産業の継承と創造を身近に感じることができるまち・小松。前田利常はその原点を形作ったと言えます。

慕われ続ける、前田利常公。
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更新日:2023年12月01日