那谷寺(なたでら)のおこりと花山法皇(かざんほうおう)

那谷寺(なたでら)は養老元年(ようろうがんねん)(717年(ねん))に、泰澄大師(たいちょうだいし)が修行中(しゅぎょうちゅう)に悟(さと)られた十一面観音(じゅういちめんかんのん)の姿(すがた)を作(つく)って祀(まつ)り、寺(てら)を建(た)てて自生山巖屋寺(じしょうざんいわやでら)と名(な)を付(つ)けられたのが始(はじ)まりといわれています。
その後(ご)およそ300年(ねん)たった時(とき)、花山法皇(かざんほうおう)が、西国三十三(さいごくさんじゅうさん)か所(しょ)の観音様(かんのんさま)の霊場(れいじょう)をお巡(めぐ)りになった後(あと)、北陸(ほくりく)に来(こ)られました。仏教(ぶっきょう)を深(ふか)く信(しん)じられた法皇(ほうおう)は、北陸(ほくりく)にも三十三(さんじゅうさん)か所(しょ)の霊場(れいじょう)を造(つく)りたいと考(かんが)えられました。たまたまこの寺(てら)にお参(まい)りされたところ、不思議(ふしぎ)なことに、岩屋(いわや)の中(なか)から三十三体観音様(さんじゅうさんたいかんのんさま)に周(まわ)りを取(と)り巻(ま)かれた本尊(ほんぞん)の十一面観音(じゅういちめんかんのん)が、光(ひか)り輝(かがや)いてまぶしいほどに見(み)えました。
法皇(ほうおう)は、「これはたしかに観音様(かんのんさま)の尊(とうと)く大(おお)きなお力(ちから)のあらわれである。わたしの求(もと)めている三十三(さんじゅうさん)か所(しょ)の霊場(れいじょう)は、みんなこの山(やま)にあるから他(ほか)のところなど訪(たず)ねる必要(ひつよう)はない。また、西国三十三(さいごくさんじゅうさん)か所(しょ)の霊場(れいじょう)を回(まわ)らない人(ひと)でも、ここにお参(まい)りすれば、それと変(か)わりがないようなみ仏(ほとけ)の恵(めぐ)みを受(う)けることができる」といわれて、西国三十三(さいごくさんじゅうさん)か所(しょ)の観音様(かんのんさ)まのみたま全部(ぜんぶ)を、この岩屋(いわや)の中(なか)の奥深(おくふか)くに収(おさ)められました。
そして、西国(さいごく)三十三か所(さんじゅうさんかしょ)の第一番(だいいちばん)の札所(ふだしょ)の紀伊(きい)の国那智山青岩渡寺(くになちざんせいがんとじ)の「那(な)」と、第三十三番美濃(だいさんじゅうさんばんみの)の国(くに)谷汲山華厳寺(たにくみざんけごんじ)の「谷(たに)」の一字(いちじ)ずつを取(と)って、「那谷寺(なたでら)」と改(あらた)められ、りっぱな建物(たてもの)を作(つく)られました。
更新日:2018年11月30日