更新日:2018年11月30日

現在(げんざい)の小松市(こまつし)ができるまで

「小松(こまつ)」の由来(ゆらい)

伝説(でんせつ)によれば、平安時代(へいあんじだい)の中(なか)ごろ、花山法皇(かざんほうおう)が北陸(ほくりく)に来(こ)られたとき、このあたりに稚松(ちしょう)(小(ちい)さい松(まつ))を植(う)えられ、いつしか「園(その)の小松原(こまつばら)」といわれて地名(ちめい)になったとされています。
もう一方(いっぽう)では、「小松殿(こまつどの)」と呼(よ)ばれた平重盛公(たいらのしげもりこう)(小松内大臣(こまつないだいじん))がここに建(た)てた「小松寺(こまつでら)」(平安時代(へいあんじだい)から戦国時代(せんごくじだい)まであった)からとったという説(せつ)もあります。

「小松(こまつ)」ができるまで

小松(こまつ)の歴史(れきし)は約(やく)2万年前(まんねんまえ)の旧石器時代(きゅうせっきじだい)から始(はじ)まり、弥生時代中期(やよいじだいちゅうき)には農耕(のうこう)(稲作(いなさく)など)が行(おこな)われていたことが「八日市地方遺跡(ようかいちじかたいせき)」でわかっています。平安時代(へいあんじだい)と鎌倉時代(かまくらじだい)には、政治文化(せいじぶんか)の中心(ちゅうしん)は遊泉寺(ゆうせんじ)、中海(なかうみ)など丘陵部(きゅうりょうぶ)にありました。この地域(ちいき)には、加賀国(かがのくに)の「国府(こくふ)」、「国分寺(こくぶんじ)」、「中宮八院(ちゅうぐうはちいん)」などが次々(つぎつぎ)と歴史(れきし)に出(で)てきます。
現在(げんざい)の市街地(しがいち)は、天正(てんしょう)4年(ねん)(1576年(ねん))、一向一揆(いっこういっき)の首領(しゅりょう)若林長門(わかばやしながと)が「小松城(こまつじょう)」を作(つく)ったのが始(はじ)まりといわれ、その後(ご)多(おお)くの戦(いくさ)で城主(じょうしゅ)が何回(なんかい)も変(か)わりましたが、寛永(かんえい)17年(ねん)(1640年(ねん))、加賀(かが)3代藩主(だいはんしゅ)、前田利常(まえだとしつね)が隠居(いんきょ)して小松城(こまつじょう)に入(はい)ってからいろいろな産業(さんぎょう)を発展(はってん)させて、城下町(じょうかまち)として立派(りっぱ)になっていきました。利常(としつね)は今(いま)でも「中興(ちゅうこう)の祖(そ)」(発展(はってん)の元祖(がんそ))と呼(よ)ばれています。
明治(めいじ)22年(ねん)、町村制(ちょうそんせい)により小松町(こまつまち)となり、昭和(しょうわ)15年(ねん)には小松町(こまつ)まちと近(ちか)くの安宅町(あたかまち)ほか周辺(しゅうへん)の牧村(まきむら)、板津村(いたづむら)、白江村(しらえむら)、苗代村(のしろむら)、御幸村(みゆきむら)、粟津村(あわづむら)の6か村(そん)が合併(がっぺい)し、全国(ぜんこく)176番目(ばんめ)の市(し)となりました。また、昭和(しょうわ)30年(ねん)には、矢田野村(やたのむら)、那谷村(なたむら)、中海村(なかうみむら)、月津村(つきづむら)の一部(いちぶ)を、翌(よく)31年(ねん)には、金野村(かねのむら)、西尾村(にしおむら)、大杉谷村(おおすぎだにむら)、新丸村(しんまるむら)と国府村(こくふむら)の一部(いちぶ)を合併(がっぺい)し、現在(げんざい)の形(かたち)になっています。