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平成28・29年度市史講座概要

平成28・29年度市史講座概要
 第79回 市史講座概要
 
  テーマ
  『木場潟の成り立ち』

   講 師:小岩 直人氏(弘前大学教授・小松市史専門委員)
   日 時:平成29年11月12日(日) 午前10時~11時30分
 
 《講座概要》
  去年から開始した,加賀三湖のプロジェクトから1年,どんなことがわかってきたのか,
 研究の成果を講演していただきました。
  加賀三湖は,元々は海だったところが何らかの原因で海から切り離された水域の「海跡湖 
 (かいせきこ)」に分類されます。約2万年前の氷期には,海成段丘面を深く刻んだ谷が存在
 していました。その後,地球規模で生じた温暖化により海面が急上昇し,小松市周辺におい
 ても月津台地や柴山台地の下まで海が侵入していたことが,木場潟のボーリングの分析から
 わかりました。この時には,小松市のほぼ全域(台地や山地を除いて)が海域となったよう
 です。
  また,木場潟周辺のボーリングの深さ14mの所に,7300年前に九州の鬼界カルデラから
 噴出したアカホヤ火山灰と推定される火山灰が10cmの厚さでみられます。アカホヤ火山灰
 はほぼ現在と同じ海面の高さの時期に噴火したことから火山灰の堆積している深さは,その
 当時の海の深さを示すとはいえ,当時は,現在の加賀三湖より大きくて,深い水域があった
 ことが推定されます。
  その後,小松市街地,および小松空港が立地している砂の高まりである2列の砂州が形成
 され,かつて海だったところが閉じられて,およそ5000~7000年前に,加賀三湖の原形が
 出来上がりました。木場潟は,その形成以降,海域,汽水,淡水へと変化するなど,激しい
 環境変化を経験してきたようです。
  今後は,今江潟においても,ボーリングを実施し,今江潟と木場潟の同時代の環境を比べ
 ながら,昔の環境を明らかにしていく予定です。

  市史講座チラシ

 
 第78回 市史講座概要
 
   テーマ
  『那谷寺 ~知られざる中世の歴史~』

   講 師:室山  孝氏(石川県立図書館加能史料調査委員・小松市史専門委員)
   日 時:平成29年9月10日(日) 午前10時~11時30分
 
  《講座概要》
  那谷寺は,今年,白山とともに,開山1300年を迎える。今ある現状の姿は,近世に入り
 前田利常によって再建されたもので,それ以前の中世の頃の姿はあまり知られていない。
 今回は,この頃の文献史料を紐解き,中世の那谷寺の姿を探ってみた
  白山周辺の地域では,奈良時代の頃から小さな規模の寺が次々と活動し始め,一方で白山
 信仰が広く行き渡ったことから白山宮グループが組織化された。すなわち仏教界の権威者で
 あった比叡山延暦寺と結びつき,ほとんどの寺院が天台宗に帰依した。那谷寺もまた延暦寺
 との結びつきを求められ,天台宗に属し,こうして白山系の寺社は,白山三ケ寺,白山五院,
 中宮八院に組織化され,この地域での勢力を確固たるものにした。
  ところが南北朝期になると,那谷寺は幕府(北朝)方の富樫高家と結び,南朝方の中宮八院
 との争いに勝利し那谷寺が中宮系の基盤を継承,南加賀の白山系寺院の代表的存在となった。
 これを機に真言密教へと改宗,醍醐寺金剛王院との関係を深めていった。
  15世紀に入ると,醍醐寺からの門跡の下向があり,灌頂(法事)を行うなど布教活動が活発
 となり,子院もでき,那谷寺は代表格としてその組織を強化した。この頃に那谷寺産の瑪瑙
 提供の話が伝わる。大内義隆が那谷寺産瑪瑙20個を所望したが,5個のみ送ったことが文献
 に載っている。
  16世紀には,一向一揆の鎮圧が始まり,朝倉軍が加賀,越前に侵攻してくる。那谷寺は,
 朝倉景隆の時に焼き討ちされ,末期には,織田軍の加賀侵攻に遭い,那谷寺は衰退の一途を
 たどることになる。

   市史講座チラシ

 

 第74・75・77回 市史講座概要

 古文書講座
 テーマ
 『町方文書を読む』     2月19日(日)
 『地方文書を読む』     3月 4日(土)
 『安宅町文書を読む』    3月18日(土)

 講 師:袖吉 正樹(金沢市立玉川図書館担当館長補佐)

  《講座概要》
   毎年恒例の古文書講座。中級編。
   今回は,町方,地方(じかた),安宅町文書を取り上げ.文書を読み解きながら当時の町
  の生活の様子を探った。
   初回の町方文書では,まず文体の特徴に慣れることから始め,読み解きは,永甫家文書
  を中心に組合頭任命の申渡状や二男が別の家に住むことになった送状,娘が京町に嫁いだ
  ことの送状,遺言書の請取状など,町の生活に密着した内容を取り上げた。
   2回目の地方文書は,石黒家文書を中心に,新開証文や田地割願など土地がらみの文書
  御境目御用の役の申付状や冥加金の受取覚,娘縁組願など当時の村の様子のわかる文書を
  読み解いた。
   最終回は図書館所蔵の安宅町文書から,安宅澗改役の申付状,船往来の許可やその土地
  で越年することの許可の願状,砂糖を積んだ船の入港願など安宅町ならではの書状や姑を
  大切にしたことで褒賞金を与える申渡状など当時の慣習の一端にふれる文書を取り上げた。

   市史講座チラシ

第76回 市史講座概要 
 テーマ
 『金沢城から小松城へ ~利常の城づくり構想~』

  講 師:木越 隆三氏(金沢城調査研究所長・小松市史専門委員)
  日 時:平成29年3月11日(土) 午後2時~
 
 《講座概要》
 寛永16年(1639)に利常は三藩分治を実施し,自らは隠居領22万石を持って,小松城に
 入城した。ところが藩主光高が正保
2年(1645)に急逝, 3歳の嫡孫綱紀が跡を継ぐも
 後見人として利常が小松城で政治を執ることになる。この間に改作法,十村制度など,
 利常らしい政治,文化(国づくり構想)の仕上げは小松城を舞台に推進されることとなる。
 では,何故利常は隠居城として,能登や越中の選択肢があったが,小松城を選んだのか。
 一説には慶長
5年(1600) の浅井畷の戦い後,丹羽長重の人質として小松城で過ごした
 想い出の地であったことからとする説があるが,能美郡,江沼郡は,一向一揆の伝統を
 持つ濃厚な真宗地域であり,この真宗的な伝統文化を押さえ込まなければ,新たな都市
 文化づくりができないと考え,その力の一番強い小松を選んだ。そして城下内に六ケ寺
 を始め寺院を呼び寄せ監視下に置き,那谷観音や白山信仰の崇拝させ,天満天神信仰を
 広め,真宗文化と拮抗させ,その力を分散させようとした。
 今回の講座は,利常の城づくりがどのように進められたかを中心に講話され,実際配置
 された寺院群を当時の町割り図を確認しながら町中も講座前に確認されました。皆様も
 旧市内を,寺院を意識しながら歩いてみましょう!

  市史講座チラシ

 図書館タイアップ講座(こまつ市民読書の日講座)概要 
 テーマ
 『天神と文学』
 
  講 師:綿抜 豊昭氏(筑波大学教授・小松市史専門委員)
  日 時:平成28年9月24日(土) 午後1時30分~3時

 《講座概要》
 小松天満宮の宝物館が来年開館ということで,天神様にまつわる話題をご講話いただいた
 のでご紹介しましょう。

 天神様といえば,天満宮または菅原道真のことですが,この両者の結びつきは、道真の
 大宰府への左遷に遡ります。道真は学問に長け,破格の昇進を遂げますが,陰謀によって
 その地位を追われ,大宰府に流され,失意のうちに亡くなります。その後落雷や疫病など
 いろいろなたたりを引き起こし,その霊の鎮魂のため,北野天満宮に祀られました。こう
 して天神信仰が生まれたのです。

 昔から勉強をすれば出世できる,将来が約束されるという風潮があって,自分の努力の
 他に,神様(天神様)にもお祈りをしたものです。今日の合格祈願にお参りするのも,この
 習わしからです。

 天神様と梅鉢との結びつきも大宰府へ出発する時に歌った,「東風ふかば にほひをこせ
 よ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」からで,飛梅伝説と謂われます。庭の梅が大宰府まで
 飛んでついていったことから,梅が道真の象徴的なマークとなりました。
  梅は好文木といって,寒いつらい環境でも一番先に花を咲かせ,苦労して努力して咲く
 ところから学問の好きな人のところに咲く花とされ,正に道真その人を物語っています。

  講座の詳細


第73回 市史講座概要 
 テーマ
 『芸能から見た曳山子供歌舞伎』

  講 師:和田 修氏(早稲田大学准教授・小松市史専門委員)
  日 時:平成28年7月9日(土) 午後1時30分~3時

 《講座概要》
 曳山子供歌舞伎250年にちなみ,市史講座でも曳山についてご講演いただきました。今回
 はこれまでとは違った視点から,曳山を町中で曳き回す謂われや歌舞伎が何故演じられる
 よう
になったのかを検証しました。
 
曳山といえば,京都の祇園祭で練り歩く山鉾(やまほこ)もそのひとつで,町中を曳き回し
 ながら,悪いもの
(疫神)を寄せ集める役割があります。故に,曳き寄せた悪霊を追い祓う
 ために,行事終了後,
曳山を壊すのが通例です。
 
ところが,小松の曳山は壊すというより,新しいもの(装飾や人形など)をつくって,付け
 加えて
山を更新するという行為を執ります。時には山の更新(付け加え)がない場合もあり
 その時
は演目を更新したり,演ずる子供役者を変えたり,とにかく,何らかの新しいもの
 をつくり
出しています。曳山は変える(=壊す)ということに意味があるのです。
 
そして,小松の曳山の場合は,曳くだけでなく,山を舞台にして歌舞伎が演じられます。
 
歌舞伎舞台の構造はいろいろ変遷しますが,江戸期のそれは,まさに,小松の曳山の構造
 と
同じで、構造が似ているなら,ここを舞台に,歌舞伎ができると考えて,子供歌舞伎に
 繋がった
ということです。歌舞伎あっての曳山でなく,疫神送りとしての曳山に歌舞伎が
 加わったと考えたのです。
 
 市史講座チラシ
 
 ※ 当日の講座資料に残部があります。お求めの方は市史編纂事務局までご連絡ください。