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平成29・30年度市史講座概要

平成29・30年度市史講座概要
第83回 市史講座概要
   テーマ
  『小松の町家建築』

   講 師:山崎 幹泰氏(金沢工業大学建築学部教授・小松市史専門委員)
   日 時:平成30年7月15日(日) 午前10時~11時30分
 
  《講座概要》
   昨年3月末に発刊した『新修 小松市史 資料編15 建築』と現在実施されている大文字町
 の重伝建調査の成果を講演いただいた。
   町家建築が建ち並ぶ中心市街地では,昭和57年に大火に遭い,その教訓から道路幅が
 広げられた。そのため,これまでミセ,オエ,ブツマ,ザシキの一列四段型の間取りだった
 が,部屋数が取れないことから,仏壇がザシキに取り込まれて,ミセ,オエ.ザシキの一列
 三段型へと構成が変わった。
  また,大火で全焼したため,一斉に建て始めたので,様式が似て,家並みの高さも揃って
 理路整然と建ち並んでいる。これまで2階は,物置の用途が多かったが,部屋としての機能
 をもたせたことから,2階が大火前より高くなっているのも特徴である。
  道路の角目を隅切りにしたのも大火後の特徴で,車が通りやすくなり,家屋も隅切りの面
 に合わせて玄関にしたり,工夫がなされている。
  龍助町は大型の町家が目立ち,大文字町は小ぶりでも離れを持つ家が多く,貸家も営んで
 いる。
  蔵は大火でも焼けずに残ったが,新築した蔵は,防災のためにも家屋に並べて建てており
 土蔵の蔵が多い。
  鋳物師の町で知られる高岡市金屋町の町家は,小松の町家と構造上似ており,その違いを
 比較してみた。
  小松の町家は,同時期に建てられたので,高い位置で軒が揃うが,金屋町は軒高に変化が
 ある。また,小松はザシキとブツマが一体化しているのに対し,金屋町はブツマがザシキ化
 している。吹抜けに面した2階も小松は廊下に障子窓を設けるが,金屋町は渡り廊下のみを
 設けるといった違いがある。柱などはどちらも漆を塗っているが,金屋町のは年数が経って
 いるのか,小松は赤さが強いのに対し,黒っぽい感じである。
  この他,調査に入った町家で特徴ある様式の紹介もあり,詳細は,市史『建築編』を熟読
 されたい。

  市史講座チラシ

 第80・81・82回 市史講座概要
 古文書講座
   テーマ
  『古文書を読んでみよう』  2月18日(日)
  『町方文書を読む』     2月24日(土)
  『地方文書を読む』     3月 4日(日)

   講 師:袖吉 正樹氏(金沢市立玉川図書館担当館長補佐・小松市史専門委員)
 
   《講座概要》
   毎年恒例の古文書講座。中級編。
   初回は,はじめて武家文書と寺院文書を取り上げた。いずれの文書もくずしが少なく,
  正当なくずし方で,初心者でも読みやすい文書である

   古文書の決まり(書札礼という)に尊敬にの表記があり,身分の高い人名や言葉が出て
  くると,尊敬の念を込めて,文字の間を1字空ける闕字(ケツジ),文章が続いていても
  改行する平出(ヘイシュツ),本文から1字飛び出す抬頭(タイトウ)が使われる。
   文書は,この書札礼に従って書き,書記官(祐筆家)が書状を書くのが慣例である。
 
 2回目の町方文書は,富山県高岡付近にある放生津(ホウジョウヅ)町で町年寄をして
  いた柴屋家の文書を取り上げた。放生津は,行政上「村」とされ,村御印も出ているが,
  町に準ずるとして在郷町と言われる。故に郡奉行の支配となり,十村が最高責任者となる。
  役職に任命された文書を始め,町の様子がわかる古文書を紐解いた

   最終回は,羽咋郡(現在は津幡町)瓜生村の地方文書を取り上げた。宝達山が隣接し,
  炭焼き,畑作で生計を立てていた。村には瓜生川が流れ,急な流れのために,よく洪水を
  起こし,そのための治水関係の文書が残っている。洪水関係の文書には,藩提出前の訂正
  を残したままの文書が残っており,訂正のまま残した文書は珍しく,今回取り上げた


   市史講座チラシ(pdf)
 
 第79回 市史講座概要
 
  テーマ
  『木場潟の成り立ち』

   講 師:小岩 直人氏(弘前大学教授・小松市史専門委員)
   日 時:平成29年11月12日(日) 午前10時~11時30分
 
  《講座概要》
   去年から開始した,加賀三湖のプロジェクトから1年,どんなことがわかってきたのか,
  研究の成果を講演していただきました。
   加賀三湖は,元々は海だった所が,何らかの原因で海から切り離された水域の「海跡湖 
  (かいせきこ)」に分類されます。約2万年前の氷期には海成段丘面を深く刻んだ谷が存在
  していました。その後,地球規模で生じた温暖化により,海面が急上昇し,小松市周辺に
  おいても,月津台地や柴山台地の下まで海が侵入していたことが,木場潟のボーリングの
  分析からわかりました。この時には,小松市のほぼ全域(台地や山地を除いて)が海域と
  なったようです。
   また,木場潟周辺のボーリングの深さ14mのところに7300年前に九州の鬼界カルデラ
  から噴出したアカホヤ火山灰と推定される火山灰が10cmの厚さでみられます。アカホヤ
  火山灰は,ほぼ現在と同じ海面の高さの時期に噴火したことから,火山灰の堆積している
  深さは,その当時の海の深さを示すとはいえ,当時は現在の加賀三湖より大きくて,深い
  水域があったことが推定されます。
   その後,小松市街地,及び小松空港が立地している砂の高まりである2列の砂州が形成
  され,かつて海だったところが閉じられて,およそ5000~7000年前に加賀三湖の原形が
  出来上がりました。木場潟はその形成以降,海域,汽水,淡水へと変化するなど,激しい
  環境変化を経験してきたようです。
   今後は,今江潟においてもボーリングを実施し,今江潟と木場潟の同時代の環境を比べ
  ながら,昔の環境を明らかにしていく予定です。

  市史講座チラシ

 
 第78回 市史講座概要
 
   テーマ
  『那谷寺 ~知られざる中世の歴史~』

   講 師:室山  孝氏(石川県立図書館加能史料調査委員・小松市史専門委員)
   日 時:平成29年9月10日(日) 午前10時~11時30分
 
   《講座概要》
   那谷寺は,今年,白山と共に,開山1300年を迎える。今ある現状の姿は,近世に入り
  前田利常によって再建されたもので,それ以前の中世の頃の姿はあまり知られていない。
  今回は,この頃の文献史料を紐解き,中世の那谷寺の姿を探ってみた
   白山周辺の地域では奈良時代の頃から小さな規模の寺が次々と活動し始め,一方で白山
  信仰が広く行き渡ったことから白山宮グループが組織化された。すなわち仏教界の権威者
  であった比叡山延暦寺と結びつき,殆どの寺院が天台宗に帰依した。那谷寺もまた延暦寺
  との結びつきを求められ,天台宗に属し,こうして白山系の寺社は白山三ケ寺,白山五院,
  中宮八院に組織化され,この地域での勢力を確固たるものにした。
   ところが,南北朝期になると,那谷寺は幕府(北朝)方の富樫高家と結び,南朝方の中宮
  八院との争いに勝利し那谷寺が中宮系の基盤を継承,南加賀の白山系寺院の代表的存在と
  なった。これを機に真言密教へと改宗,醍醐寺金剛王院との関係を深めていった。
   15世紀に入ると,醍醐寺からの門跡の下向があり,灌頂(法事)を行うなど,布教活動が
  活発となり,子院もでき,那谷寺は代表格としてその組織を強化した。この頃に那谷寺産
  瑪瑙の提供の話が伝わる。大内義隆が那谷寺産の瑪瑙20個を所望したが,5個のみ贈った
  ことが文献に載っている。
   16世紀には,一向一揆の鎮圧が始まり,朝倉軍が加賀,越前に侵攻してくる。那谷寺は
  朝倉景隆の時に焼き討ちされ,末期には,織田軍の加賀侵攻に遭い,那谷寺は衰退の一途
  をたどることになる。

   市史講座チラシ

 
 ※ 当日の講座資料に残部があります。お求めの方は市史編纂事務局までご連絡ください。